秀朝の死後、秀朝の嫡男、小山朝郷が家督を相続するが、幼少であり、秀朝の自害の際に多くの家臣がともに自害したため、小山氏の勢力は急速に縮小した。それでも北朝方から下野国守護職に任じられ、下野国をはじめとする関東の北朝方として活動した。しかし、関東では北朝方は振るわず、一族の結城宗広らは南朝方であった。建武4年(1337年)、小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕らえられた。しかし、南朝方の有力武将で小山氏の分家筋である結城宗広の助命嘆願と北畠顕家の温情によって許された。その後、朝郷の活動の記録はあるものの、南朝方優勢の状態が続き、目立った活躍は見られない。また、同族の結城宗広や結城親朝らからは南朝方に味方するように再三の要請の記録が残っている。しかし、幼少の自分を惣領と認め、下野国守護職に任じた足利尊氏への恩顧の意思は変わらなかった。
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朝郷の後は、弟と思われる小山氏政が家督を継いた。そのころ、足利氏内部では、足利尊氏と足利直義の兄弟の不和が大きくなり、ついに観応2年(1351年)、観応の擾乱が起こった。氏政もそのなかで直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。しかし、小山氏の勢力の衰えがこの時期に如実に現れる。多くの下野国の武士が小山氏ではなく、同じ下野の名族の宇都宮氏の当主宇都宮氏綱に従ったのである。こうして下野国守護職は宇都宮氏に引き継がれた。